新しい病院に分娩室を造る。それなら、そこで赤ちゃんを産めるようになる――つい、そう読んでしまいますよね。けれど奥能登で決まったのは、分娩室という「部屋」は整備する一方、現時点では分娩を扱わないという方針でした。
なぜか。答えは、出産の安全を支える本体が部屋ではなく、夜間の急変にも動ける人のチームと、その先の手術・新生児医療・搬送まで含む仕組みだからです。部屋は大切な器です。ただ、その器を安全な医療として動かすには、24時間途切れない人と連携が要ります。ここが今回のミソなんです。

石川県の奥能登地域にある4つの公立病院を統合して整備される新病院。地域医療の持続可能性を担う拠点として期待される一方、県は先日、この新病院で分娩、つまり出産を扱わない方針を決定した。背景には、過去の医療事故や深刻な医師不足という現実がある。「母子の安全」を最優先とする医療側と、「地元で産みたい」と願う住民側。双方の思いが交錯する中、下された苦渋の決断の経緯と、地域が直面する課題を取材した。8月24日、石川県庁で奥能登の能登空港近くに整備する新病院に向けた検討会が開かれた。焦点となったのは、奥能…
今回の登場人物
- 奥能登新病院: 輪島市、珠洲市、穴水町、能登町の四つの公立病院を再編し、のと里山空港周辺に整備する構想の新病院です。既存の四病院は、日常の診療を担うサテライト医療機関として残す方向です。
- ワンホスピタル体制: 妊婦健診や産後のケアは奥能登で続け、出産はリスクに応じて七尾や金沢の病院が担う考え方です。一つの建物へ全部を詰めるのではなく、地域全体を一つの病院のようにつなぎます。
- 分娩チーム: 産科医と助産師だけを指す言葉ではありません。急な帝王切開に備える麻酔科医や手術部門、生まれた赤ちゃんへ対応する小児科・新生児医療、看護師、救急搬送の連携までが安全網になります。
- 周産期医療: 妊娠後半から出産、生まれて間もない時期の母子を支える医療です。厚生労働省は、妊娠22週から出生後7日未満を「周産期」としています。今回の話では、出産の瞬間だけでなく、その前後をどうつなぐかが大切です。
何が起きたか
FNNプライムオンラインは2026年9月13日、奥能登の新病院で分娩を扱わない方針と、その決定をめぐる住民・医療者双方の声を報じました。新病院には、将来、体制が整った場合に備えて分娩室を設けます。ただし、開院時に分娩を始めると決まったわけではありません。
奥能登では、2024年1月の能登半島地震後、市立輪島病院が分娩を停止し、地域内で出産できる医療機関がなくなりました。妊婦は七尾や金沢などへ通い、出産しています。地元で産みたいという願いが強いのは当然です。移動には時間がかかり、冬の道路、家族の付き添い、上の子の預け先まで、診察室の外に負担が積み上がります。
一方、石川県の専門分科会は、分娩には母子の安全を最優先する24時間365日の体制と、交代勤務を組める相当数の医師・助産師らが必要だと整理しました。分娩数が限られる奥能登で、それを持続して確保するのは極めて厳しい。そこで、まずワンホスピタル体制を築くのが適当だと結論づけたのです。
部屋より先に人が要る
分娩室には、分娩台や観察装置などの設備を置けます。でも設備は、自分で診断し、応援を呼び、手術を始めてはくれません。安全を動かすのは人です。
厚生労働省の資料によると、約半数の赤ちゃんは、夜勤帯にあたる午後5時から翌朝9時までに生まれています。しかも、妊娠中は順調に見えても、出生時刻や分娩にかかる時間、緊急対応の必要性を正確に予測するのは難しい。だから分娩を扱う施設には、昼の外来時間だけでなく24時間対応できる体制が求められます。
夜勤明けの一人が、そのまま翌日の健診も、次の夜の急変も背負う体制では続きません。複数の産科医が必要なのは「相談相手がいたほうが心強い」だけではなく、交代して休みながら常時対応し、緊急時には複数人で動くためです。一人の献身を勤務表の空欄へ書き込むやり方は、安全対策とは呼べないんですね。
2021年6月には市立輪島病院で、赤ちゃんが亡くなる医療事故が起きました。事故の原因や、担当した医師の診療と責任をきちんと検証することは欠かせません。同時に、その検証を一人の問題だけで閉じず、地域で一人の産科医へ重い対応を集中させていた体制も調べる必要があります。事故後に設けられた協議会では、産科医の複数配置が必要だと指摘されました。個人の責任と仕組みの責任は、どちらか一方を見れば済む話ではないのです。
「産科医がいる」でも足りない
出産で急な手術が必要になれば、産科医だけでは完結しません。緊急帝王切開には手術室、麻酔を担う医師、看護スタッフが要ります。赤ちゃんの状態が悪ければ、小児科や新生児医療につなぐ必要があります。自院で対応できない重いケースなら、受け入れ先を決め、母体や赤ちゃんを安全に運ぶ連絡と搬送の仕組みも欠かせません。
石川県の会議資料には、公立能登総合病院の体制を説明した医療関係者の発言が載っています。産婦人科医については、常勤3人に大学からの応援を加え、当直を交代で回す体制にはおおむね5人が必要と説明されました。助産師23人、小児科医5人、麻酔科医3人、外科医1人も挙げられました。
ただし、これは全国すべての病院にそのまま当てはめる「最低人数表」ではありません。一つの病院が、分娩の裏側にどれほど多くの職種を置いているかを示す具体例です。数字だけコピーしても、勤務時間、経験、設備、他院との連携が違えば同じ体制にはなりません。病院づくりは、レシピの人数欄だけ写せば完成、とはいかないわけです。
症例が少ないという難題
能登北部の二つの病院で扱った分娩は、2018年には計180件でした。県資料では2024年はゼロで、奥能登4市町の出生数も140人まで減っています。地震による分娩停止と人口減少が重なった数字なので、「需要が自然に消えた」と単純には読めません。それでも、新たに複数医師の交代制を組むには分娩数が限られるという現実が残ります。
ここで誤解しやすいのが「年間100件」という数字です。検討会では、年間100件ほどの分娩のために、高い技能を持つ複数の医師を呼べるのかという懸念が出ました。症例が少なければ、医師が経験を積み続けにくく、勤務先として選ばれにくいという指摘です。
でも、100件を超えれば安全、99件なら危険、という全国共通の線が引かれたわけではありません。症例数は、技術を磨く機会、人材の採用、交代勤務の費用を考える材料の一つです。安全は分娩件数だけで決まらず、担当者の経験、チーム、設備、搬送先との関係をまとめて見なければなりません。数字一本で白黒をつけると、話が急に薄くなります。
遠くで産めば解決でもない
では、分娩を七尾や金沢に集めれば全部安心か。ちょっと待って、話はそこからです。医療者が厚い施設へ集約する利点があっても、そこへたどり着くまでの距離は消えません。
県が公立能登総合病院を利用した奥能登4市町の妊産婦ら25人を対象に行ったウェブ調査では、17人が回答しました。地元以外での出産について、「陣痛が来てから病院まで間に合うか」を15人が、「移動時間が長い」を15人が不安に挙げました。14人は冬季や悪天候時の移動を心配し、上の子の世話を挙げた人も13人いました。小規模な調査なので地域全体の割合とは言えませんが、距離が具体的にどんな負担へ変わるかは見えます。
同じ調査では、七尾や金沢での出産に「とても」または「ある程度」安心感があると答えた人が計12人でした。理由には、医師・助産師らの体制、緊急時の対応、新生児への対応が挙がっています。つまり住民の気持ちは、「近ければ安全」「遠ければ安心」の二択ではありません。近さも、急変時の厚い支えも、どちらも必要なんです。
安全網は道の途中にもある
ワンホスピタル体制で問われるのは、分娩場所を南へ移すことだけではありません。石川県と市町は、交通費や事前宿泊費の支援に加え、緊急時に移動手段がなく、かかりつけ医らが救急車搬送を必要と判断した妊婦を運ぶ「出産サポート119」を能登北部4市町で進めています。県立中央病院は、消防や奥能登の公立病院向けの連絡回線で後方支援します。
それでも、制度があることと、妊婦が迷わず使えることは別です。いつ事前宿泊を始めるのか。雪で道路事情が悪い日はどう判断するのか。上の子を誰が預かるのか。急変時にどこへ連絡し、どの病院が受け入れるのか。ここまでを事前に具体化して、初めて「地域全体で一つの病院」という言葉に中身が入ります。
新病院の分娩室は、将来の可能性を物理的に残す意味があります。ただし、開院までの目安とされる6〜7年の間に人員がそろうか、分娩を始められるかは、現時点では決まっていません。見るべきは部屋の図面だけではなく、複数医師の勤務計画、助産師、小児科・麻酔・手術部門、搬送先との取り決め、冬の移動や宿泊支援が一枚の運用図になっているかです。
まとめ
奥能登の新病院に分娩室を造るだけでは、安全な産科医療にはなりません。分娩は時刻も急変も読み切れないため、複数の産科医と助産師が交代でき、必要なら麻酔・手術・新生児対応へすぐつながる24時間のチームが要ります。自院で完結できない場合は、搬送と受け入れ先まで含めて設計しなければなりません。
一方で、集約先が遠いことによる妊婦と家族の負担も、見なかったことにはできません。だから論点は「地元出産か安全か」という対立ではなく、限られた人材で安全を保ちながら、健診、事前宿泊、移動、出産、産後ケアをどう切れ目なくつなぐかです。
部屋は将来の扉を残します。でも、その扉を安全に開ける鍵は人と連携です。分娩室の有無より、夜中に誰が動き、次にどこへつなぐのか。そこまで見て初めて、奥能登の産科医療を本当に理解したことになるんです。