裁判所を止めるには、法廷の扉を封鎖しなくてもいい。職員への給与、捜査先への出張、データを置くシステム、証人を守るための移動費。その支払いを一つずつ通らなくすれば、判事が席にいても仕事は動きにくくなります。
米トランプ政権が国際刑事裁判所、ICCへの大規模な制裁を準備していると報じられました。ただし、これはまだ報道段階の案です。今回は「すでに起きたこと」と「案が実行された場合に起こりうること」を分けたうえで、なぜ米国外の裁判所にドルが効くのかを見ます。

アメリカメディアはトランプ政権がICC=国際刑事裁判所に大規模な制裁を科す準備を進めていると報じました。アメリカのウォールストリート・ジャーナルは20日、当局者などの話としてトランプ政権がICCに対し大規模な制裁を科す準備を進めていると報じました。制裁措置は約半年の猶予期間を経た後、ICCとの取引の大部分を禁止するもので、ウォールストリート・ジャーナルはICCはアメリカ・ドルでの取引が禁止され「世界の金融システムの大部分から締め出されることで機能不全に陥る可能性がある」と伝えています。また、こ…
今回の登場人物
- ICC: 国際刑事裁判所。オランダ・ハーグにあり、戦争犯罪や人道に対する犯罪などについて、国ではなく個人の責任を問う。国連の一部ではなく、条約に基づく独立した裁判所だ。
- 赤根智子所長: 日本人のICC所長。2026年8月、米国の制裁対象に指定された。
- OFAC: 米財務省外国資産管理局。制裁対象の指定や、禁止取引の許可を運用する機関。金融制裁の実務を握る。
- コルレス銀行: 国際送金で銀行同士をつなぐ仲介銀行。ドル送金では、米国外同士の取引でも米国の銀行が途中に入ることが多い。
- SWIFT: 銀行が送金情報をやり取りする通信網。お金を最終決済する場所ではない。
- 過剰順守: 法律が明確に禁じた範囲より広く、銀行や企業が制裁リスクを避けて取引を断ること。こうした取引回避は、デリスキングの一形態でもあります。
何が起きたか
FNNは9月21日、米紙ウォール・ストリート・ジャーナルの報道をもとに、トランプ政権がICCへの大規模な制裁を準備していると伝えました。報道された案では、6〜7か月ほどの猶予を置いた後、通信サービスなど一部を除く大半の取引を禁じ、ICCのドル取引を遮断する可能性があるとされます。
まず、足元をそろえます。この制裁は、まだ米政府が正式に発表した決定ではありません。情報源は政府当局者と内部資料だと報じられていますが、対象、例外、発動日を書いた制裁文書は公表されていません。「米国がICCのドル取引を止めた」ではなく、「止める案が報じられた」が現在地です。
一方、ICC関係者個人への制裁はすでにあります。トランプ大統領は2025年2月、大統領令14203号で制裁の枠組みを設けました。2026年8月18日には赤根所長とアブドゥライ・セイェ裁判官が米財務省の制裁リストに追加されています。
個人制裁と、今回報じられたICC全体への制裁案は別物です。前者が実施済み、後者は未決定。この二つを混ぜると、影響を必要以上に確定した話としてしまいます。
ここが本題
ICCは米国の裁判所ではありません。本部はオランダです。それでも米国がドル取引を止めると、なぜ給与や調達、捜査まで動かなくなりうるのでしょうか。
答えは、国際機関の仕事も最後は日常の支払いでできており、その支払いが銀行と民間業者の網を通るからです。加盟国から分担金が入っても、それだけでは職員の口座に給与は届きません。送金を処理する銀行、システムを提供する企業、現地活動を支える業者が必要です。制裁が実施されれば、この途中の関所で支払いが止まる可能性があります。
ここでは「お金があること」と「お金を動かせること」を分けると理解しやすくなります。ICCはローマ規程の締約国による分担金などで運営されます。2026年度の提案予算は約1億9,755万ユーロです。しかし、帳簿に予算があり、口座に資金があっても、銀行が送金を処理せず、取引業者が請求を受け付けなければ仕事の支払いには変わりません。財源は水で、決済網は水道管です。水があっても管が閉じれば、必要な場所には届かない。制裁案の焦点は、この管のほうです。
ドルは米国を通りやすい
たとえば、オランダのICCがアフリカの取引先へドルを送るとします。送り手も受け手も米国人ではありません。それでも、ドルを最終的に決済するため、途中で米国のコルレス銀行や米国の決済システムを通ることがあります。
米国の銀行はOFACの規制に従います。取引相手が制裁対象なら、送金を拒否したり、資金を凍結したりします。ここでいう凍結は、米政府がその場でお金を没収することではありません。動かせない状態にすることです。動かせなければ、支払いを受ける側から見た結果は重いものになります。
ここは言葉が似ているので、交通整理が要ります。この点は、SWIFTからの排除とは違います。SWIFTは銀行同士が「誰から誰へ、いくら送る」と連絡する通信網です。ドル清算は、その連絡の後で実際に銀行間の勘定を決済する工程です。メッセージを送れても、米国の銀行が決済を止めればお金は届きません。今回の報道から、ICCがSWIFTから排除されるとまでは言えません。
米国外の会社も離れうる
では、支払いをすべてユーロにして、米国企業を使わなければ解決するでしょうか。話はそこまで単純ではありません。影響を減らす手段にはなりますが、それで完全に安全とは限りません。
非米国の銀行や業者でも、米国に支店がある、ドル取引を使う、米国製のクラウドや決済サービスに依存するといった接点があります。米国での事業や銀行関係を失う危険を考えれば、「ICCとの取引は全部やめよう」と判断する会社が出る可能性があります。
大統領令には、指定された活動や制裁対象者を実質的に支援した外国人を追加指定できる仕組みもあります。ただし、ICCと取引した外国企業がすべて自動的に指定される、という意味ではありません。どの行為が対象になり、どんな許可が設けられるかは運用次第です。この不確実さそのものが、企業を慎重にさせます。
ここが過剰順守です。米国法が世界中の全企業を一律に直接禁止する、という説明ではありません。企業側が、違反かどうかを一件ずつ判定する費用と危険を避け、許される可能性のある取引まで断る。その民間判断が、制裁の影響を米国外へ広げます。
実例もあります。AP通信は、制裁対象となったICCの主任検察官が銀行口座や電子メールへのアクセスを失い、協力団体が関係を縮小したと報じています。個人への指定でも、銀行とITと協力者が離れれば仕事の基盤が細ります。組織全体が対象になった場合の懸念は、想像だけではありません。
一方で、OFACの制裁には、一定の取引をまとめて認める一般許可や、個別審査で認める個別許可があります。8月の赤根所長らへの指定時にも、既存取引を整理するための許可が出ました。正式な制裁文書を見るまでは、「例外が一切なく翌日から全面停止」と想定するのも早すぎます。
給与から捜査までつながる
ICCの仕事を、法廷だけで考えないことが大切です。職員の給与を払い、通訳や専門家と契約し、保険を用意し、捜査官を現地へ送り、証拠データを安全に保管する。証人を危険な場所から移す場合もあります。これらには送金と業者が要ります。
銀行がICC名義の取引を受けなければ、給与や取引先への支払いが遅れます。ソフトウェア会社が契約を切れば、記録管理や連絡手段の代替が必要になります。旅行、保険、現地の支援団体が離れれば、捜査や証人保護の日程に影響します。一つの支払い停止が、別の作業の停止へつながるわけです。
ICCが2025年4月に公表した2024年の活動報告でも、制裁リスクを受けて供給網を点検し、ICT、銀行、保険の契約調整や新たな調達を進めたと説明しています。裁判所側も、法廷の外側にある日常業務を弱点として認識していることが分かります。
ただし、「全職員の給与が止まる」「捜査がすべて停止する」と断定はできません。ユーロ口座、非米国企業への切り替え、OFACの許可、締約国の支援など、影響を和らげる手段はありえます。正式文書がない今、言えるのは停止の経路が存在することまでです。
日本にとっての意味
これは遠い国際機関の話ではありません。赤根所長は日本人です。日本政府は8月の制裁指定を「大変残念」とし、ICCを一貫して支持すると表明しました。
日本は2024年時点でICC分担金の約15%を負担する最大拠出国です。日本が資金を出しても、裁判所が職員や取引先へ送金できず、捜査を支える契約を維持できなければ、拠出金は期待した働きに変わりません。ただし、日本の拠出金が直ちに凍結・没収されると決まったわけではありません。
次に見るべきなのは、米政府が正式文書を出すか、ICCそのものを制裁リストへ載せるか、どの取引に例外や許可を設けるかです。通信、被害者支援、弁護活動、証人保護、締約国からの分担金がどう扱われるかで、実際の打撃は大きく変わります。
まとめ
報じられたICC制裁案は、まだ決定ではありません。実施済みなのは赤根所長ら個人への制裁であり、ICC全体への取引禁止とは分ける必要があります。
それでも、ドル取引の遮断が裁判所の日常を揺らす経路は明確です。米国の銀行がドル決済を止め、米国外の銀行や業者も危険を避けて離れれば、給与、調達、IT、移動、証人保護といった実務が細っていきます。裁判所は判決文だけで動いているのではありません。国際刑事司法の実務にも、毎月の振り込みと契約更新がある。その地味な部分を止めることが、組織を機能不全へ近づけるのです。
Sources
- FNN「トランプ政権、ICCに『大規模な制裁』準備」
- The Wall Street Journal, Trump Administration Prepares to Sanction the International Criminal Court
- 聯合ニュース・WSJ報道の要約
- The White House, Executive Order 14203
- OFAC, International Criminal Court-Related Sanctions
- OFAC, Sanctions List Updates, August 18, 2026
- AP, Sanctions disrupt ICC prosecutor's banking and email access
- AP, U.S. sanctions ICC President Tomoko Akane and another judge
- ICC, Report on activities and programme performance for 2024
- BIS, Annual Economic Report 2025
- Federal Reserve Financial Services, Fedwire Funds Service
- 外務省「赤根国際刑事裁判所所長に対する米国の制裁措置について」
- 外務省「外交青書2025」