モロッコで初めて、女性が「政府の長」(首相)に任命された。これは正真正銘、歴史的なニュースだ。けれど、ここで「では国のトップが女性に交代した」と一行で理解すると、モロッコの政治の半分を落としてしまう。
2026年9月29日、ムハンマド6世国王はファティマ・エザフラ・エル・マンスーリを「政府の長」に任命し、組閣を命じた。政府の長は、日本語のニュースでいう首相に当たる。ただしモロッコでは、選挙で選ばれた議会と政府に加え、国王が戦略、軍事、宗教、外交などで強い権限を持つ。
今回の本題は、女性首相という歴史性に「ただし」を付けて小さくすることではない。歴史的な前進と、制度上の権力配分を、どちらも縮めずに理解することだ。ここは「どちらか」ではなく、「両方」でいこう。

The king asked El Mansouri to form a new government
今回の登場人物
- ファティマ・エザフラ・エル・マンスーリ(Fatima Ezzahra El Mansouri): 国王からモロッコ初の女性「政府の長」に任命された政治家。真正・現代党の共同指導部で調整役を務める。
- ムハンマド6世国王: モロッコの国家元首。首相を任命するだけでなく、重要な国家戦略、軍事、宗教、外交などで強い憲法上の権限を持つ。
- 政府の長: モロッコ憲法での首相の正式な呼び方。政府を率い、その活動を調整して政府評議会を主宰し、自らも規制権限を行使する。
- 真正・現代党(PAM): マンスーリが共同指導部の調整役を務める政党。今回の下院選挙で第1党になった。PAMはフランス語名の頭文字から取られた略称で、この記事では党名の代わりに使う。
- 政府評議会と閣僚評議会: 名前は似ているが別の会議。政府評議会は政府の長が主宰し、公共政策、法案・政令案、行政人事などを扱う。閣僚評議会は原則として国王が主宰し、国家政策の戦略的方向や軍事関連法案、戦略的機関の主要人事などを扱う。
何が起きたか
ロイター配信の記事を掲載したBusiness Recorderによると、ムハンマド6世国王は9月29日、モロッコ憲法47条に基づき、マンスーリを政府の長に任命した。女性がこの職に就くのは初めてだ。
任命の根拠になったのは下院選挙の結果である。マンスーリが共同指導部の調整役を務めるPAMは、定数395の下院で97議席を得て第1党となった。憲法47条は、国王が下院選挙で第1党となった政党から政府の長を任命すると定めている。つまり国王が候補者を白紙から自由に選んだ、という話ではない。選挙結果と国王の任命が、制度の中でつながっている。
ただし、9月29日に完成したのは新政府ではなく、首相の任命までだ。マンスーリはこれから連立相手を探し、閣僚名簿をまとめる。閣僚は政府の長の提案を受けて国王が任命する。その後、政府の施政方針を議会へ示し、下院の信任を得なければならない。
写真撮影が済んだから引っ越しも終わった、とはならない。今は新居の鍵を受け取り、誰と住み、どんな家具を置くかを決める段階だ。
97議席では信任に届かない
下院395議席の絶対多数は198議席である。PAMの97議席では、そこまで101議席足りない。この算数は、かなりはっきりしている。第1党になったことと、単独で政権を運営できることは同じではない。
議席数では、独立国民連合(RNI)が66、イスティクラル党が65、正義発展党(PJD)が54と続く。けれど、ここから「ではこの3党のどこかと組むはずだ」と先回りしてはいけない。どの党が連立に入り、何を政策合意にし、誰を閣僚にするかは、9月29日時点では決まっていない。
大切なのは、マンスーリの権力が女性だから弱いわけではない、ということだ。最初から不足しているのは性別ではなく議席である。これは男性の首相候補でも同じだ。連立交渉を経て議会の信任を得るというハードルは、政府の長候補が越える制度上の関門だ。
初の女性首相という記録は、「政治を率いるのは誰か」という社会の景色を変える。これまでその席に女性がいなかった社会で、女性が「政府の長」に任命される前例を作ったからだ。一方、記録の新しさだけでは連立の組み方も、政策の中身も決まらない。歴史のページは開いた。でも、政策の本文はこれから書く。ここを一緒くたにしないのが大事なんだ。
政府の長が動かす範囲
では、議会の信任を得て政府が発足した後、政府の長は何ができるのか。飾りの肩書ではない。ここは、きちんと線を引いておこう。
2011年憲法は、政府が行政権を行使すると定める。政府は政府の長の権限下で法律を実施し、行政機関を用い、公企業・公的機関を監督する。政府の長は政府の活動を調整し、政府評議会を主宰するとともに、自ら規制権限を行使する。
政府評議会では、一般的な国家政策や公共政策、法案、政令案、行政上の人事などが議論される。すべての人事を自由に決められるわけではないが、国王が扱う戦略的な重要人事とは別に、政府の長が担う任命の領域もある。
ざっくり言えば、政策を法案や行政の仕事へ落とし込み、役所を動かし、実行を管理するのが政府の長だ。「国王が強いなら首相は何もしない」という理解では、こちらの広い実務を見失う。
学校でいえば、方針だけ掲げても時間割、先生の配置、予算の使い方が決まらなければ一日は始まらない。政府の長は、その巨大版を回す役目を持つ。もちろん規模は学校どころではない。欠席連絡ひとつでも済まない国家運営である。
国王が握る強い権限
その一方で、モロッコを一般的な「国王は儀礼中心の立憲君主制」と同じ箱へ入れることもできない。憲法は、国王に実質的で強い権限を与えている。
国王は原則として閣僚評議会を主宰する。この会議では、国家政策の戦略的方向、憲法改正案、組織法案、軍事分野に関する法案、戒厳状態や宣戦、戦略的な公的機関・企業などの主要人事が扱われる。日々の行政を超えた、大きな方向や国家の土台に関わる案件だ。
軍事では、国王は軍の最高司令官である。宗教上は「信仰者の長」として、イスラムに関する固有の地位を持つ。外交でも、大使の認証や条約の批准などに関わる。国王はリボンを切って手を振るだけ、という役ではない。
ただし、「国内政策は首相、外交は国王」と定規で一本線を引くのも正確ではない。国家の戦略は国内の産業や財政にも及びうるし、政府が外交実務から消えるわけでもない。案件によって政府評議会と閣僚評議会が関わり、政府と国王の権限が接続する。
この制度は、二人の運転手が同時にハンドルを握って大騒ぎ、という意味ではない。それぞれが主宰する会議と権限の範囲が憲法に書かれている。見るべきは「誰が一番偉いか」の一問勝負ではなく、どの案件を、どの会議で、誰が決めるのかだ。
「初の女性」と「国王の権限」は両立する
ここで中心問いへ戻ろう。モロッコ初の女性首相は、どこまで国を動かせるのか。
答えはこうだ。マンスーリは、議会の信任を得て政府が発足すれば、政府の長として政府を率いる。政府は法律の実施や行政機関・公企業の監督を担い、政府の長自身も規制権限を行使する。同時に、国家の戦略、軍事、宗教、外交や重要人事では、国王が強い権限を持ち続ける。はい、ここが制度の地図の中心だ。
この二つは矛盾しない。「初の女性だから実権がない」のではないし、「首相だから国家権力を一手に握る」のでもない。マンスーリの権限は、性別ではなく憲法と議会の力関係によって形作られる。
だから今後は、三つの段階を分けて追うとニュースを読み違えにくい。第一に、どの政党と連立を組むか。第二に、誰が閣僚候補となり、国王がその人たちを任命するか。第三に、施政方針が下院の絶対多数から信任を得るかだ。任命の見出しだけで「新政権がすべて始まった」と思わないこと。政治ニュースでは、動詞の時制が案外いちばん働き者なんです。
日本の読者が見る意味
このニュースが、すぐ日本の税金や電気料金を変えるわけではない。それでも知る価値はある。国際ニュースで同じ「首相」「国王」「議会」という日本語が使われても、権限の組み合わせは国ごとに違うからだ。
肩書だけを日本の制度へ当てはめると、「国王は象徴だから政治をしないはず」「首相は行政のすべてを最終決定するはず」という思い込みが入り込む。モロッコを見るときは、選挙結果、国王の任命、議会の信任、二つの会議という四つの部品を組み合わせる必要がある。
そして、女性の政治参加を見るときにも同じ注意が要る。人数や「初」の記録は重要だが、その人がどんな制度の中で、どんな連立を作り、どの政策を実行できるかまで見て初めて、代表と権力の両方が分かる。ガラスの天井を破ったかを確かめたら、その上の部屋の間取りも見よう、という話だ。
まとめ
ファティマ・エザフラ・エル・マンスーリの任命は、モロッコで女性が初めて政府の長に任命された歴史的な一歩だ。ただし、9月29日時点では連立、閣僚名簿、国王による閣僚任命、施政方針、下院の信任が残っており、新政府はまだ発足していない。
政府が発足すれば、政府の長は政府を率いてその活動を調整し、政府評議会を通じて政策を動かす。政府は法律を実施し、行政機関や公企業を監督する。一方、国王は戦略、軍事、宗教、外交、重要人事で強い権限を持つ。歴史性か権力構造か、どちらか一方を選んで理解する必要はない。初の女性首相という変化を正面から評価し、その人が動く制度の地図も同時に読む。それがこのニュースのいちばん正確な受け止め方だ。
Sources
- Business Recorder: Morocco king names first woman prime minister
- SNRT News: SM le Roi nomme Fatima Ezzahra El Mansouri Cheffe du gouvernement et la charge de former le nouveau gouvernement
- AP: Morocco's king appoints first woman prime minister
- AP: Morocco election results and party seat totals
- モロッコ王国憲法(政府法務ポータル)
- Constitute Project: Morocco's Constitution of 2011
- 中東調査会: モロッコ政治情勢に関する解説
- 外務省: モロッコ王国基礎データ