「上場企業の平均年収が692.6万円、過去最高」。この数字を見て給与明細を二度見しても、明細のほうが「いや、私は昨日と同じですけど」と返してくる人は多いはずだ。
ニュースが間違っているわけでも、あなたの実感が鈍いわけでもない。692.6万円は、日本で働く人全員の「真ん中の年収」ではないからだ。調査対象、平均の作り方、物価の三つを分けると、数字と暮らしの距離がすっきり見える。

帝国データバンクの調査によりますと、昨年度の上場企業の平均年間給与は692万円となり、過去最高を更新しました。5年連続で前の年を上回りました。 平均年間給与が増加した企業は全体の77%に上りました。
今回の登場人物
- 帝国データバンク(TDB): 企業信用調査などを行う会社。今回は、上場企業が提出した有価証券報告書をもとに、平均年間給与を集計した。
- 有価証券報告書: 上場企業などが事業内容や業績、従業員情報を投資家向けに開示する書類。今回の調査は、ここに平均年間給与、平均年齢、勤続年数の記載がある会社を対象にする。
- 平均値: 全部を足して個数で割った値。大きな数字に引っぱられやすい。教室に大富豪が一人転校してくると、クラスの平均資産が急に元気になるタイプだ。
- 中央値: 数字を小さい順に並べたときの真ん中。今回の661.6万円という中央値は「会社ごとの平均年収」を並べた真ん中で、働く人全員の年収中央値ではない。
- 名目賃金と実質賃金: 名目賃金は受け取る金額そのもの。実質賃金は、物価の変化を考えて、そのお金でどれだけ買えるかを見た数字だ。
何が起きたか
テレビ朝日が報じたのは、TDBが7月9日に公表した「上場企業の平均年間給与」調査だ。
対象は、2025年4月から2026年3月までに決算期を迎え、2026年6月30日までに有価証券報告書を提出した上場企業のうち、平均年間給与、従業員平均年齢、勤続年数を記載している約3700社。持ち株会社かどうか、社員数が何人かでは対象を絞っていない。
会社が開示した平均年間給与を集計すると692.6万円だった。前年度の671.1万円から21.5万円、3.2%増え、5年連続の上昇。データがある2003年度以降で最高になった。企業ごとの平均年収が前年より増えた会社は76.8%、ざっくり77%に達する。平均年間給与の上昇が広がった、というニュースの芯はここにある。
では、なぜ多くの人が「692万円もないぞ」と感じるのか。答えは、同じ「平均年収」という言葉の中に、別の地図が何枚も重なっているからだ。
ここが本題
まず押さえたいのは、692.6万円が日本の給与所得者を一人ずつ並べて計算した平均ではないことだ。
入口は上場企業の有価証券報告書である。日本には上場していない大企業、中小企業、個人事業所も多い。そこで働く人はこの約3700社の集計には直接入らない。正社員以外の働き方も、日本全体の雇用には広く存在する。したがって、この数字を「日本の会社員なら平均692.6万円」と読み替えるのは、東京都の天気を見て「日本全国、傘はいりません」と宣言するようなものだ。範囲が違う。
国税庁の別の調査では、2024年に1年を通じて勤務した民間給与所得者5137万人の平均給与は478万円だった。こちらは対象も年も集計方法もTDB調査と違うので、692.6万円から478万円を引いて「上場企業との差は214.6万円」と精密に比べることはできない。ただ、給与所得者全体に広げると見える景色がかなり変わる、という確認にはなる。
平均の中に、もう一つ平均がある
ややこしいが、今回の数字には「平均の平均」という性格がある。
まず各社が、自社の有価証券報告書に平均年間給与を載せる。そこには、その会社の対象従業員の構成が映る。若手が多い会社と管理職が多い会社、現場社員を多く抱える会社と本社機能が中心の会社では、同じ業績でも平均給与は変わる。
次にTDBは、そうした会社ごとの平均年間給与を約3700社について集計する。だから692.6万円は、読者一人ひとりの給与分布の「真ん中」を示す数字ではない。
TDBが示した企業ベースの中央値は661.6万円だった。平均692.6万円より31万円低い。高い平均給与を持つ企業が全体の平均を押し上げていることがうかがえる。ただし、この中央値も「日本の働く人の半数が661.6万円以上」という意味ではない。約3700社の会社平均を並べたとき、その真ん中が661.6万円という意味だ。ここを取り違えると、中央値という正しそうな言葉を使って、きれいに別の答えへ着地してしまう。
持ち株会社という特殊席
TDBは、持ち株会社などの業態や社員数で対象を限定していない。ここも実感との差を考えるポイントだ。
持ち株会社は、グループ企業の株式を持ち、経営管理を担う会社だ。傘下の工場、店舗、営業所で働く大勢の社員が、持ち株会社そのものではなく各事業会社に所属する場合がある。一方、持ち株会社には経営や財務などを担う比較的少人数の社員が集まることがあり、開示される平均給与がグループ全体の職場像をそのまま表すとは限らない。
これは数字の不正ではない。有価証券報告書に書かれた会社の範囲を正しく集計した結果だ。ただ、会社の箱の作り方が違えば、中にいる人の構成も違う。社員100人の会社平均と社員1万人の会社平均を眺めるとき、どちらも「1社」だが、暮らしへの広がりは同じではない。この調査は社員数で対象を絞っていないため、見出しから受ける「上場企業で働く全員を一つに混ぜた平均」という印象とは距離がある。
業種で200万円以上違う
平均年収は、どの業界にいるかでも大きく変わる。
TDBによると、上場する製造業の平均は702.6万円、非製造業は686.8万円だった。さらに細かく見ると、海運業は1120.1万円で唯一1000万円を超えた。証券・商品先物取引業は962.1万円、保険業は936万円、鉱業は911.7万円。一方、市場別では東証プライムが793.2万円、東証グロースが648万円、東証スタンダードが615.6万円だった。
同じ「上場企業」でも、海運業の平均と東証スタンダード全体の平均には500万円ほどの開きがある。平均692.6万円は、この高低を全部ならした一つの数字だ。海も証券も小売りも同じ鍋に入れたスープなので、鍋の味は分かるが、自分の皿に何が入っているかまでは分からない。
企業別の分布を見ても、最も多かったのは600万円台で939社、25.6%。次が500万円台で850社、23.1%だった。1000万円以上は235社、6.4%ある一方、500万円未満も430社、11.7%あった。500万円台以下を合わせると34.8%だ。「上場企業はみんな700万円近い」という一枚絵ではないことが分かる。
77%増えても、全員は増えない
前年より平均年間給与が増えた企業が76.8%という数字は、賃上げの広がりを示す重要な材料だ。ただし、これも「働く人の76.8%が同じように昇給した」という意味ではない。
ある会社の平均給与は、基本給の引き上げだけでなく、賞与、残業、採用・退職による年齢構成の変化などでも動きうる。若手の初任給を大きく上げても、中堅社員の昇給が同じ割合とは限らない。逆に、給与の高いベテランが退職すれば、残った社員が昇給していても会社平均が下がる場合さえある。平均は便利だが、社内の一人ずつに昇給通知を配る郵便屋さんではない。
TDB自身も、人手不足を背景に初任給や給与テーブルを上げる動きがある一方、成長や海外事業の利益で原資を確保できる企業と、原材料高の価格転嫁に苦しみながら防衛的に賃上げする企業の二極化を指摘している。若手と中堅・管理職で恩恵に差が出る可能性にも触れた。全体平均の上昇は本物でも、上がり方は均等ではない。
692.6万円は名目の数字
もう一つ、家計の実感を考えるなら物価を外せない。
692.6万円も、前年度比3.2%増も、会社が報告した金額を比べる名目の数字だ。スーパーや家賃、電気代がどれだけ上がったかを差し引いた数字ではない。給料が3%増えても、よく買う物がそれ以上に値上がりすれば、生活が楽になった感覚は生まれにくい。
厚生労働省の毎月勤労統計では、2025年の名目賃金指数は前年比2.3%増だった一方、消費者物価指数の「持家の帰属家賃を除く総合」で実質化した賃金は1.3%減だった。別の物価指数「総合」で実質化すると0.8%減である。どちらの計算でも、物価を考えた購買力は前年を下回った。
ただし、ここでも乱暴な引き算は禁物だ。TDBは2025年度決算の上場企業、有価証券報告書の平均年間給与。毎月勤労統計は常用労働者5人以上の事業所を対象にした2025年の賃金指数で、期間も母集団も定義も違う。「TDBの3.2%から物価3.7%を引けば正解」という話ではない。
言えるのは、上場企業の名目給与が過去最高になったことと、多くの働き手が物価高で楽になったと感じないことは両立する、ということだ。数字同士はけんかしていない。別の質問に答えているだけである。
このニュースの正しい使い方
692.6万円は無意味な数字ではない。上場企業の平均年間給与が5年連続で上がり、約77%の企業で前年を上回り、人材確保のために給与水準を動かす流れが広がったことを示している。転職や就職を考える人には、市場別・業種別の差も有力な手がかりになる。
ただ、自分の給与が高いか低いかを測る物差しに、そのまま使うのは向いていない。比べるなら、自分と近い業種、企業規模、雇用形態、年齢層の統計を見る必要がある。そして暮らし向きなら、名目額だけでなく物価を考えた実質賃金も見る。
ニュースの平均は、健康診断の「日本人の平均身長」に少し似ている。社会全体の傾向は分かるが、あなたの靴のサイズまでは教えてくれない。数字が悪いのではなく、質問との相性がある。
まとめ
平均692.6万円が多くの働き手の実感とズレる最大の理由は、これが日本の働き手全員を対象にした中央値ではなく、有価証券報告書に必要項目を記載した上場約3700社の「会社ごとの平均年間給与」を集計した数字だからだ。持ち株会社や社員数で除外せず、業種差も大きい。企業ベースの中央値661.6万円でさえ、個人の年収中央値ではない。
さらに、76.8%の企業で平均が増えても全社員が同率で昇給したとは限らず、692.6万円は物価を差し引かない名目額だ。見出しを正しく言い直すなら、「上場企業の会社平均は広く上昇した。ただし、日本の働き手一人ひとりの暮らしが同じだけ良くなったとは、この調査だけでは言えない」。ここまで説明できれば、平均年収ニュースに置いていかれない。