ALSの治療薬候補「MA-5」で改善を確認――。9月23日のKAB ONLINEの記事を見て、「ついに患者さんへ効く薬ができたのか」と期待した人もいるでしょう。けれど、ちょっと待ってください。今回の研究が確かめたのは、ALSの患者さんへ薬を投与した結果ではありません。

では、何が前進したのか。ここを小さく見積もる必要もないんです。ALSを再現したショウジョウバエと、患者さんの細胞から作った運動神経細胞など、性格の違う複数の実験モデルで、細胞のエネルギーづくりに関わる改善が重なって見えました。今回は、研究が上った階段と、まだ上っていない階段をきっちり分けます。

「ALS」ミトコンドリア機能改善治療薬候補物質で初の確認 東北大ら研究G
「ALS」ミトコンドリア機能改善治療薬候補物質で初の確認 東北大ら研究G

ALS(筋萎縮性側索硬化症)でのミトコンドリアの機能異常を改善する可能性を示す研究を東北大学などのグループが発表しました。 ALS患者は運動神経細胞でエネルギーを生成するミトコンドリアの機能が低下するとされています。 東北大学大学院医学系研…

今回の登場人物 ​

  • ALS(筋萎縮性側索硬化症): 筋肉を動かす指令を伝える運動神経細胞が徐々に障害され、筋力低下や呼吸障害などが進む病気。原因や病気の進み方には幅がある。
  • ミトコンドリアとATP: ミトコンドリアは細胞内でエネルギーを生み出す小器官。ATP(アデノシン三リン酸)は、そのエネルギーを細胞が使える形で受け渡す分子だ。ミトコンドリアはよく「細胞の発電所」と呼ばれるが、発電だけでなく形や移動も大切になる。
  • MA-5: 正式名はMitochonic acid 5。ミトコンドリアの内側の構造やエネルギー産生を支える目的で開発されてきた低分子化合物で、今回の「治療薬候補」だ。
  • SOD1とFUS: 一部のALSで、変異が発症に関係する遺伝子。今回は、これらに変異がある患者さん由来の細胞などでMA-5を調べた。
  • iPS細胞(人工多能性幹細胞): 体の細胞から作り、運動神経細胞などへ育て直せる細胞。患者さんの運動神経を直接取り出しにくいため、病気を実験室で調べる橋渡し役になる。

何が起きたか ​

東北大学、京都大学、国立精神・神経医療研究センター、慶應義塾大学などの研究グループは、MA-5をALSの複数の実験モデルで調べました。論文は9月22日、医学誌『JCI Insight』に掲載されています。

記事の中心となる主な検証モデルは三つです。第一は、変異した人のSOD1遺伝子を神経系で働かせたショウジョウバエ。第二は、ALS患者さんの皮膚から採った線維芽細胞。第三は、患者さん由来のiPS細胞から育てた運動神経細胞です。

この並べ方が大事なんですよ。一つの皿の中の細胞だけでなく、生きたハエの動きも見る。一方で、ハエだけでは人の細胞との違いが大きいので、患者由来細胞でも確かめる。違う弱点を持つ模型を組み合わせ、同じ方向の変化が出るかを見たわけです。

ハエで見えた変化 ​

ショウジョウバエの実験では、MA-5を1リットルあたり10ナノモルまたは100ナノモル(10 nMまたは100 nM)の濃度で、糖液に混ぜて口から与えました。運動機能は、容器の底へ落としたハエが20秒以内に5センチ以上登れるかで測っています。ハエの運動能力を、同じ条件で数値にする方法です。

MA-5を与えなかったALSモデルのハエでは、生まれてから日数がたつにつれて登る力が落ちました。100 nMを与えた群では30日目と40日目、10 nMの群では30日目に、対照のALSモデル群より登る成績が有意に良くなりました。「有意」とは、統計的に差があると判断された、という意味です。別の生存解析でも、MA-5を与えた群は生存期間が延びています。

研究者は運動神経の中も調べました。ALSモデルで減っていたミトコンドリアの量に相当する指標、ATP量、ミトコンドリア膜電位が、MA-5投与後に改善しました。膜電位は、ミトコンドリアがエネルギーをつくる力を保つうえで必要な電気的な差です。つまり、ハエでは「登れた」という外側の変化と、「エネルギー装置の状態が持ち直した」という内側の変化が同じ方向を向いた。ここは今回の強いところです。

ただし、哺乳類での確認はまだ薄い。論文にはSOD1変異マウスの予備解析もありますが、繁殖上の事情からMA-5群と対照群が各1匹だけで、統計的な評価はできませんでした。研究チーム自身も、十分な数の哺乳類モデルでの検証が必要だとしています。

患者由来細胞で見えた変化 ​

次は、人に一歩近い細胞です。SOD1変異のあるALS患者さん2人のiPS細胞から作った運動神経細胞では、健康な人由来の細胞よりATP産生と最大呼吸能が低下していました。最大呼吸能は、酸素を使ってエネルギーをつくる力の上限を調べる指標です。普段の働きを示す基礎呼吸の低下は、2系統のうち1系統で確認され、細胞ごとの差もありました。ここを「ALSなら全部同じ」と丸めないのが肝心です。

この運動神経細胞へMA-5を加えると、1リットルあたり100ナノモル(100 nM)でATP産生が有意に増えました。電子顕微鏡で見たミトコンドリアの形の異常も改善し、細胞内を移動する平均速度も上がりました。ミトコンドリアは、神経細胞の長い突起の中を必要な場所へ動きます。発電所が元気でも、電気が必要な場所へ届かなければ困る。形と移動まで見たのは、そういう理由です。

FUS遺伝子に変異がある患者さん由来の運動神経細胞でも、ATP産生、形、移動に同じ方向の改善が見られました。また、SOD1変異のある患者さんの皮膚線維芽細胞と、既知のALS関連遺伝子変異がない孤発性ALS患者さん2人の線維芽細胞でも、ATP産生などを調べています。

ただし、「濃いほど効く」という単純な話ではありません。iPS細胞由来の運動神経細胞では、1リットルあたり10マイクロモル(10 μM)以上は効果が見えにくいか、有害な可能性が示されました。孤発性ALS由来の線維芽細胞でも、1リットルあたり30マイクロモル(30 μM)では効果が弱いか有害な可能性がありました。薬の量と効果、安全性の関係は、これから詰める必要があります。

何を助けたのか ​

MA-5は、ミトコンドリア内膜の形を支えるミトフィリンというたんぱく質に作用し、ATPをつくる酵素群や呼吸鎖のまとまりを整えると考えられています。たとえるなら、燃料をどんどん足すというより、発電設備の並び方を整えて仕事をしやすくする発想です。

今回、MA-5を加えた運動神経細胞では、ミトコンドリア内膜や、ATPをつくる仕組みである酸化的リン酸化に関わる遺伝子群の変化も確認されました。一方、エネルギーづくりに関わるクエン酸回路で生じる物質の偏りは、MA-5で元に戻りませんでした。ミトコンドリアに関わる異常を全部まとめてリセットしたわけではない。改善したところと、変わらなかったところの両方があるんです。

まだ「人に効いた」ではない ​

ここまでを一度、交通整理しましょう。今回、比較的しっかり言えるのは、MA-5が複数のALS実験モデルでミトコンドリア機能に関わる指標を改善し、ハエでは運動機能と生存にも改善が見られたことです。

まだ言えないのは、ALS患者さんの筋力低下や病気の進行を改善すること、安全で有効な投与量、すべてのALSの型に効くことです。患者由来iPS細胞は人の遺伝的背景を持つ貴重なモデルですが、全身で起きる免疫、血流、薬の吸収や分解まで再現する「小さな患者さん」ではありません。

MA-5は過去に、健康な成人男性58人を対象とした第1相試験を終えています。ただし、これはミトコンドリア病治療薬として、1回だけ、または7日間繰り返し投与した際の安全性や、薬が体内でどう動くかを調べた試験です。ALS患者さんへの有効性や安全性を確かめたものではありません。この違いは、飛ばさずに押さえておきたいところです。

論文も限界を明記しています。患者由来の細胞株、とくにiPS細胞由来運動神経の種類と数は限られ、SOD1、FUS、孤発性ALS以外の型へ広く当てはめるには不足があります。次に必要なのは、十分な数の哺乳類モデル、より多様な患者由来細胞、そして最終的にはALS患者さんを対象にした臨床試験です。

それでも大事な一歩 ​

「今回の研究ではALS患者さんへの効果を確かめていない」と聞くと、急に価値が小さく見えるかもしれません。でも、そうではありません。候補物質を患者さんへ届ける前に、何を改善するのか、違う実験モデルでも同じ方向が見えるのか、効かない濃度や限界はどこかを確かめる。こうした確認が、人での効果と安全性を慎重に調べるための土台になります。

今回の研究の要点は、「MA-5でALSが治った」ではありません。ALSに伴うミトコンドリアの不調を狙う考え方が、ハエの個体と複数の患者由来細胞でつながったことです。そして、そのつながりを人の治療へ運べるかは、まだ次の研究に委ねられています。

期待するなら、段階を飛ばさずに期待する。慎重に読むことは、研究を冷たく見ることではありません。どこまで分かったかを受け取れば、次にどんな結果を待てばよいかも、はっきりしてきます。

まとめ ​

MA-5は、SOD1変異ALSモデルのショウジョウバエで運動機能、生存、ATP産生、ミトコンドリア膜電位などを改善しました。SOD1やFUS変異を持つ患者さん由来のiPS細胞から作った運動神経細胞でも、ATP産生、形、移動の改善が確認されています。

ただし、これは前臨床段階の研究です。ALS患者さんへの有効性、安全性、適切な投与量を示したものではありません。今回上ったのは「治療法の完成」への最終段ではなく、候補物質の根拠を複数の模型で厚くした段階。その位置を正しく知ってこそ、この成果の大きさも、次に必要な研究も見えてきます。

Sources ​