40年前、クジラ保護のいちばん大きな課題は分かりやすいものでした。商業捕鯨で大量に捕られていたクジラを、原則として捕らないようにする。国際捕鯨委員会は商業目的の捕獲枠を原則ゼロにし、その後、ザトウクジラなど多くの個体群が増えてきました。
ところが、南極のシロナガスクジラは今も捕鯨前の推定数の約1.9%。別の海では、漁具に絡まり、船に衝突し、人が出す海中の音にさらされるクジラがいます。大きな宿題を一問解いたら、裏面にも問題がびっしりあった。モラトリアム40年後の本題は、まさにそこです。
Since whaling was banned in 1986, whale numbers have rebounded but threats, mostly human-made, remain and are on the agenda at a meeting in Hobart.
今回の登場人物
- IWC: 国際捕鯨委員会。クジラの個体数を調べ、捕鯨の国際ルールや保全策を話し合う政府間組織です。クジラ専門の司令室ではありますが、海の活動すべてを直接取り締まる「世界の海役所」ではありません。
- 商業捕鯨モラトリアム: IWCが商業目的の捕獲枠を原則ゼロにした措置です。1982年に決まり、1985〜86年の漁期から効力を持ちました。「全世界で捕鯨が一頭残らず禁止された」という意味ではありません。
- 個体群: 同じ種の中でも、主に暮らす海域や繁殖する集団が異なる管理単位です。「ザトウクジラ」という同じ表札でも、集団ごとの成績表は別々です。
- CCAMLR: 南極海洋生物資源保存委員会。南極の海洋生物資源を守るための組織で、オキアミ漁を実際に管理する中心です。IWCとは別の組織です。
- 日本: 2019年にIWCのもとになる国際捕鯨取締条約から脱退しました。現在は非加盟国としてIWC会合にオブザーバー参加し、共同調査やデータ提供も続けています。
何が起きたか
ABC Newsは、IWCの第70回会合が2026年9月27日から10月2日まで、オーストラリアのホバートで開かれると報じました。IWCの根拠となる国際捕鯨取締条約の署名80年と、商業捕鯨モラトリアム40年が重なる会合です。
議題には、南大西洋に鯨類サンクチュアリをつくる提案や、船舶衝突への対応を求める決議案などが並びます。サンクチュアリ案は1998年から議論され、今回もIWCの法的ルールである「付表」の改正案として提出されました。改正には投票国の4分の3以上が必要です。
ただし、この記事を書いている時点では会合が始まったばかりです。提案は提案であって、採択済みではありません。ここで結果を先取りすると、ニュースの水面から足が浮きます。まず見るべきなのは、40年間で保護の課題そのものがどう変わったかです。
戻り方はばらばら
「モラトリアムでクジラは戻った」。大筋では明るい話ですが、この一文だけでは主語が大きすぎます。クジラの状態は、種ごと、さらに個体群ごとにかなり違うからです。
ザトウクジラは、多くの個体群が順調に回復しています。IWCが現在紹介している評価では、南半球全体の数は捕鯨前の推定数の約70%まで戻りました。ただし、IWCページの参考文献や評価報告には2015〜2016年のものが含まれ、アラビア海など今も危機的な集団があります。「ザトウクジラはもう大丈夫」と全員まとめて卒業証書を渡せる段階ではありません。
南極のシロナガスクジラは、さらに厳しい状態です。IWCが示す2024年の推定は約4,000頭で、幅を見込むと1,870〜8,400頭。捕鯨前の推定数に対して1.9%です。最後に捕獲が記録された1973年以降、数は増えているとみられますが、「増加中」と「回復済み」は同じ言葉ではありません。
北米東岸に暮らすタイセイヨウセミクジラは、2024年の推定で384頭です。2010年の476頭から減り、IWCは過去20年にほぼ純増がなく、回復の証拠はないとしています。繁殖可能な雌は100頭未満。ここでは漁具への絡まりと船舶衝突による一頭の死が、個体群全体に重く響きます。
つまり、モラトリアムは大きな捕獲圧を取り除きましたが、魔法の回復薬ではありません。捕鯨でどこまで減ったか、繁殖にどれだけ時間がかかるか、いま何頭が人間活動で死ぬか。回復速度は、こうした条件に大きく左右されます。
脅威は一本ではない
現在の大きな問題の一つが、混獲です。魚を捕るための網や縄に、狙っていないクジラやイルカがかかります。IWCは、世界で少なくとも年30万頭の鯨類が混獲で死ぬと推定し、鯨類にとって最大の単一脅威と位置づけています。
この30万頭には大型クジラだけでなく、イルカやネズミイルカも含まれます。監視や報告が十分でない海域も多いため、精密な年次集計でもありません。それでも、捕鯨船が狙って捕るのとは違う形で、大きな死亡圧が残っていることは分かります。
次が船舶衝突です。大きな船は衝突に気づかないことがあり、海上で死んだクジラが見つからない場合もあります。このため、報告件数だけでは規模を測れません。タイセイヨウセミクジラのように数が少ない個体群では、航路をずらす、速度を落とすといった対策が、生き残りを左右しえます。
そして水中騒音。クジラは音を使って、餌を探し、移動し、仲間とやりとりします。船舶、資源探査、海中工事などの音は、必要な音を聞こえにくくしたり、行動や体の状態に影響したりする可能性があります。ただし、どの音がどの個体群をどれだけ減らすかは未解明な部分もあります。「海がうるさいから全部のクジラが減る」と一本線で結ぶのは、科学より話が先に泳いでいます。
南極では、クジラの餌であるオキアミも論点です。回復するヒゲクジラは大量のオキアミを食べます。一方、オキアミは養殖用の飼料や健康食品向けに漁獲される商業資源でもあります。漁場とクジラの餌場が同じ場所、同じ時期に集中すれば、将来の競合が心配になります。
さらに、オキアミを捕る網そのものへの混獲も起きています。CCAMLRの報告では、オキアミ漁で2021年にザトウクジラ3頭、2022年に1頭の死亡が記録されました。2024年には2頭が死亡し、1頭がけがをした状態で放されました。CCAMLRは網に哺乳類を入りにくくする装置の使用を義務づけています。
2024年の『Nature Communications』掲載論文は、回復するクジラと拡大するオキアミ漁の競合を警告しました。ただし、論文自身が計算を概算とし、クジラの摂餌日数や海域ごとのデータ不足を挙げています。現在の漁業がすでにクジラを大規模に飢えさせている、と証明した研究ではありません。注意報を、いきなり被害確定のお知らせに変えてはいけないわけです。
IWCの届く範囲
ここで、IWCが全部まとめて禁止すればいいじゃないか、と思った人もいるでしょう。ところが国際機関には担当があります。学校の係よりだいぶ複雑で、しかも相手は世界の海です。
IWCの強い法的道具は、条約の「付表」です。商業捕鯨の捕獲枠、サンクチュアリ、捕獲方法などを定め、原則として加盟国を拘束します。モラトリアムもこの付表に書き込まれた捕獲枠ゼロのルールです。ただしノルウェーは正式な異議申立て、アイスランドは留保のもとで商業捕鯨を行い、自国で捕獲枠を設定しています。日本は条約から脱退したため、加盟国としてこの付表に拘束される立場ではありません。
一方、IWCの「決議」は正式な意思表示ですが、原則として法的拘束力がありません。船の航路や速度は各国と国際海事機関、漁具や混獲対策は各国や漁業管理機関、南極のオキアミ漁はCCAMLRが中心です。南大西洋サンクチュアリ案が採択されても、その海域の網、船、騒音を自動で一掃する仕組みではありません。
ではIWCは無力なのか。そうでもありません。どの個体群が何頭いて、どこを移動し、何に弱いかを調べる。船舶衝突のデータベースをつくる。混獲を減らす技術を共有する。クジラ側の科学をCCAMLRや国際海事機関へ渡す。別々の担当者が同じ地図を見られるようにするのが、いまのIWCの重要な仕事です。
昔の脅威は「捕る人」が比較的見えやすかった。いまは網、船、音、餌場が少しずつ重なります。犯人当てより、海の交通整理が必要なタイプの難問なんです。
日本は外から関わる
日本政府は2018年12月に条約からの脱退を決め、2019年6月30日に効力が生じました。同年7月、1988年以降中断していた商業捕鯨を再開しました。
水産庁は、科学的根拠に基づいて鯨類を持続的に利用することを基本姿勢としています。脱退理由については、IWCが「鯨類の保存」と「捕鯨産業の秩序ある発展」という二つの目的について合意できず、長く機能不全に陥った、と説明しています。ここは大事な線引きで、「IWCは機能不全だった」と中立的な確定事実にするのではなく、日本政府がそう評価した、と書くべきところです。
脱退後も、日本はIWCとの非致死的な共同調査「IWC-POWER」を続け、科学データを提供する方針を示しています。今回のIWC70でも、日本は非加盟国政府の開会声明提出者として公式議題に載っています。条約の外へ出たことと、国際的な鯨類研究からすべて離れたことは同じではありません。
これは「日本は正しいか、間違っているか」の早押しクイズではありません。条約の内側にある投票権と義務、外側から続ける科学協力を分けて見る場面です。そのうえで、日本の漁業や海運が混獲、船舶衝突、海中騒音をどう減らすかも、捕獲枠とは別の保護課題として残ります。
まとめ
モラトリアムの40年は、捕獲枠を原則ゼロにすることが個体群回復の大きな土台になると示しました。同時に、回復は全員一列では進まないことも見せています。
次の40年に測るべきなのは、捕獲数だけではありません。漁具や船で何頭が死んだか。繁殖できる雌が増えたか。餌場と漁場の重なりを減らせたか。音の影響を確かめ、必要な対策を実行できたか。個体群ごとに、いちばん細いところを見つけて太くする必要があります。
商業捕鯨を原則止めるという大きなブレーキは、確かに効きました。でも、いま必要なのは海のあちこちにある小さなブレーキを連動させることです。クジラを捕らないだけでなく、クジラが戻ってきても生き続けられる海をつくれるか。モラトリアム40年後の保護は、そこまで進んでいます。
Sources
- ABC News: International Whaling Commission to discuss continued threats to whales
- IWC: IWC70 Biennial Commission Meeting
- IWC: History and Purpose
- IWC: Commercial Whaling
- IWC: The South Atlantic Sanctuary
- IWC: Humpback whale
- IWC: Antarctic blue whale abundance, distribution and ecology
- IWC: Status of North Atlantic right whales
- IWC: Bycatch
- IWC: Ship Strikes
- IWC: Anthropogenic sound
- IWC: Resolution 2024-1 on Cooperation in Antarctica
- CCAMLR: Fishery Report 2024, Antarctic krill in Area 48
- Nature Communications: Whale recovery and the emerging human-wildlife conflict over Antarctic krill
- 水産庁: IWCについて
- 水産庁: なぜ日本はIWCを脱退したのですか