1768年創業の老松酒造が、杜氏不在で創業以来初めて日本酒造りを断念した。そこへ入ったのが、酒造りの経験ゼロだった元高校数学教員の前野貴行さんと、かつての教え子・森下朋哉さん。約60メートル先のライバル酒蔵で、3カ月の修業に挑んだ。ここまで聞くと、老舗復活の映画はもうエンドロールへ向かいそうです。
でも、ちょっと待って。話はそこからなんです。報道で確認できるのは、3カ月かけて種切りなどの基礎を実地で学び、指導を受けながら酒の完成まで関わったことです。米や微生物の様子がいつもと違うときの判断、別の設備で同じ狙いを実現する調整、翌年も品質を再現する力は、これから自分たちの蔵で確かめなければなりません。本題は「技を継げたか、継げなかったか」の二択ではない。酒造りの技能を何層に分けて受け渡すか、です。

“日本酒発祥の地”と言われる兵庫県宍粟市。この地に、創業から258年を誇る老舗酒蔵「老松酒造」があります。しかし去年、日本酒造りに不可欠な杜氏が不在となり、創業以来初めて酒造りを断念するという危機に直面しました。その蔵を継ぐために立ち上がったのは、15年間教壇に立ってきた元高校数学教師・前野貴行さん(39)。酒造りの経験は“ゼロ”ながら地元で生まれ育った蔵を守るため、前野さんの挑戦が始まりました。■ 創業から258年 残る酒蔵は2軒だけ宍粟市はかつて多くの酒蔵が軒を連ねましたが、現在も酒造りを…
今回の登場人物
- 老松酒造:兵庫県宍粟市にある、1768年創業の酒蔵。2025年、杜氏が不在となり、創業以来初めて日本酒造りを断念した。
- 前野貴行さん:高校で15年間、数学を教えたのち、2026年3月に退職。同年6月に老松酒造の社長へ就任した。酒造りは未経験からの出発だ。
- 森下朋哉さん:老松酒造で前野さんと働く21歳。前野さんの元教え子で、二人で修業に参加した。
- 山陽盃酒造と壺阪雄一さん:老松酒造から約60メートル先にある酒蔵と、その社長兼杜氏。商売では競い合う関係でありながら、3カ月の修業を受け入れた。
- 杜氏:仕込み全体を見渡し、作業、発酵の状態、品質を管理する製造現場の責任者。「杜氏」という法定免許がなければ酒を造れない、という意味ではない。酒類の製造には、製造場ごとの免許が別に関わる。
- 麹ともろみ:麹は、蒸した米に麹菌を繁殖させたもの。米のでんぷんを糖へ変える働きをする。もろみは、その糖を酵母がアルコールへ変える発酵中の混合物だ。
何が起きたか
FNNプライムオンラインによると、老松酒造では2025年夏、酒造りを担ってきた杜氏が親の介護で不在となり、その年の日本酒造りを断念した。蔵に商品や建物が残っていても、製造全体を任せられる人がいなければ仕込みは回らない。老舗の看板は立派でも、看板が米を蒸し、麹の具合を見てくれるわけではない。伝統というのは、人の手と判断が動いて初めて続くものなんですね。
そこで前野さんは、元教え子の森下さんとともに、2026年4月から近隣の山陽盃酒造で修業を始めた。作業は午前5時半から。麹菌を蒸米へ行き渡らせる「種切り」などを実地で学び、3カ月の修業を終えた。
ただし、ここで「老松酒造の復活に成功した」と拍手するのはまだ早い。報道時点で、老松酒造自身の蔵での初しぼりは11月の予定だ。いまは独り立ちを証明したところではない。道具箱を持って、ようやく自分たちのスタート地点へ戻ってきたところです。
杜氏不在で失うもの
杜氏は、決められた作業だけを黙々とこなす職人、では収まらない。原料の処理、麹づくり、発酵の進み具合、衛生、品質、作業の段取りまで、製造全体を見渡す。選手でもあり監督でもあり、気温や湿度まで気にする人。ひと言でどうぞ、と頼まれても、だいたい大事な部分がはみ出す仕事だ。
ここ、免許の話とは分けておきましょう。酒を製造するには、酒税法に基づく酒類製造免許が製造場ごとに必要になります。一方、「杜氏」は製造現場で果たす役割の呼び名であり、法定の「杜氏免許」ではありません。老松酒造が製造を止めたのは、資格証を持つ人がいなくなったからではなく、現場全体の判断と管理を担う人材が不在となったため、と整理するのが正確です。
つまり、今回受け渡すべきものは肩書ではない。仕込みの一工程をできるだけでも足りない。複数の工程をつなぎ、予定から外れたときに止めるのか、待つのか、変えるのかを決める機能そのものだ。では、これを3カ月でどこまで渡せるのか。いや、ここがミソなんですよ。
3カ月で学んだこと
短期間の修業でも、基本を実地で学ぶ意味は大きい。報道で確認できるのは、午前5時半からの作業に加わり、種切りなどを教わり、指導のもとで酒の完成まで関わったこと。何を見て、何を質問し、どの順番で動くのか。自分たちの蔵へ持ち帰る基礎を、まず現場で体に入れたわけです。
酒類総合研究所は、酒造りの技能を分析するなかで、単なる手作業だけでなく、測定、評価、判断、進み具合の管理などを分けて捉えている。言われたとおりに手を動かすことと、状態を評価して次の操作を決めることは、同じ能力ではないということだ。
ただ、3カ月の修業だけで、判断を含む全技能を継げたとまではまだ確認できません。だからといって、無意味という話でもない。初めての人は、そもそも何を見落としているかが分からない。修業によって「見る場所」と「聞くべき質問」が増える。「自分は何が分からないのか」が見えるだけでも、出発前とは別世界です。
修業先で前野さんたちが関わった酒は、実際に出来上がり、試飲まで進んだ。基本の手順をつないで完成へ運ぶ経験は得たわけだ。ただし、それは山陽盃酒造の設備と、壺阪さんの監督がある環境での経験である。この条件を外したときにどうなるかは、まだ次の問いとして残っている。
3カ月の先に残る判断
酒造りは微生物を相手にする。毎回、機械部品のように同じ顔で机に並んでくれるわけではない。米の状態も、温度も、水分も、発酵の進み方も揺れる。手順書に書きやすい「通常時」より、予定と違う日にどう気づき、どう直すか。こちらのほうが、技能の厚みをつくる。
酒類総合研究所も、酒造りには言葉や数値だけでは表しきれない暗黙知が多いと説明する。たとえば麹づくりでは、温度や水分を測るだけでなく、米の外観など官能的な面も合わせて状態を見ていく。数字は大事だが、数字の横で起きている変化まで読む必要がある。
修業中、前野さんはもろみタンクの栓を開け忘れる失敗もした。ここで本人を笑って終わってはいけない。それでは肝心なところを取り逃がす。この出来事から見えるのは、個別の作業と工程全体の確認を両立する必要がある、ということです。
一度、正しい手順でできること。異常に早く気づくこと。原因の候補を絞ること。味や安全を守るため操作を変えること。これらは別々の段だ。手順書は渡せる。でも「今日は少し違うぞ」と気づく目までは、USBメモリでは移せない。そこまで便利なら苦労はない。季節を何度もまたぎ、失敗と修正を重ねて、ようやく判断の引き出しが増えていく。
持ち帰るには翻訳がいる
もう一つの難所は、修業先と自社の違いだ。前野さん自身が、道具も施設も人も違うと話している。同じ時間だけ蒸す、同じ温度を目指す、同じ順番で動く。文字にすれば三行ほどだが、釜の大きさや蔵の断熱、作業人数が違えば、同じ操作が同じ結果を生むとは限らない。
だから老松酒造で必要なのは、山陽盃酒造の動きをそっくりまねることではない。「この操作は、何を起こすためにしているのか」を理解し、自分たちの設備で同じ狙いへ近づけることだ。隣の蔵で百点でも、自分の蔵に戻れば問題用紙が少し違う。元数学の先生に、ずいぶん粋な応用問題が回ってきたものです。
もちろん、修業したから山陽盃酒造と同じ味になるわけでも、秘伝を丸ごともらったわけでもありません。老松酒造が目指す酒を、老松酒造の道具で安定して造る。その翻訳の成果が最初に問われるのが、11月に予定される初しぼりです。
ライバルが教えるという選択
それにしても、約60メートル先の競合に酒造りを教える。商売の教科書だけ見れば、「そんなに見せて大丈夫ですか」と、こちらが余計な心配をしたくなる。だが現在、宍粟市で酒造りを続ける蔵は2軒だ。山陽盃酒造の壺阪さんは、両方がおいしい酒を造れれば、酒好きがわくわくするという趣旨を語っている。
隣はライバル。でも町から酒蔵が一軒ずつ消えれば、最後に残った一軒だけが勝者、とは言いにくい。地域に異なる酒が二つあり、飲む人が比べて楽しめる。今回の支援は、結果としてそんな景色を残すことにもつながるかもしれません。
ただし、ここから「地域の集客が必ず増える」「経済効果が生まれる」とまでは言えない。今回確認できるのは、山陽盃酒造が技術指導を引き受け、老松酒造が製造再開へ進む機会を得たところまでだ。いい話ほど、話を盛らずに置いたほうが味がある。
11月は卒業式ではなく、最初の答案
11月に予定される初しぼりで見るべきなのは、「酒ができた、よかった」だけではない。自社設備へ手順を合わせられたか。途中の変化を記録し、次の仕込みへ直せるか。複数回でも品質を保てるか。そして翌年も再現できるか。技能継承の成否は、一回の成功より、成功を繰り返せる仕組みに表れる。
さらに、判断が前野さん一人へ再び集中すれば、将来また同じ弱点を抱える。森下さんと状態を言葉にし、記録を残し、二人以上が異変を見つけられる形にできるかも重要だ。人から人へ教えるだけでなく、記録と対話へ分散させてこそ、蔵に技能が残る。
11月は卒業式ではない。最初の答案提出です。しかも採点は、たぶん一回では終わらない。3カ月で受け取った基礎を、自分たちの蔵で試し、記録し、直し、また試す。その循環が回り始めて、初めて技能は老松酒造のものになっていく。
まとめ
3カ月の修業で確認できるのは、製造再開へ向けて基本を実地で学び、指導のもとで酒の完成まで関わったことです。これから確かめるのは、いつもと違う日に気づく判断、自社設備に合わせる調整、年をまたいで品質を再現する力です。
継承は、知識を箱に入れて手渡す一日ではない。公式は教わった。これから自分の蔵で応用問題を解く。老松酒造の本当の再出発は、11月の一本を造って終わりではなく、その答案を次へ生かすところから始まる。